行政書士開業 徒然日記

57歳で行政書士開業を決意した男のブログです

クラシック音楽の楽しみ

同じ楽曲を、いろいろな演奏家の演奏で聴いてみるということは、クラシック音楽を聴くうえでの大きな楽しみの一つだと思います。

 

これは、歌謡曲やポップスなどでよくある、誰かの持ち歌を他の誰かがカバーしたものを聴く、というのとは似ているようでまったく違うことです。

 

と言うのも、所謂クラシック音楽の世界には、もともと誰かの「持ち歌」などという概念が存在し得ないからです。「原曲」というものが、クラシック音楽の世界には存在しない。

 

何故なら、いくらバッハ、モーツァルト、ベートーベンなどと言ったところで、彼らの演奏自体が「原曲」として残っているわけではなく、ただ単に彼らが書いた「楽譜」が残っているに過ぎないからです。

 

楽譜は、言うまでもなくそれ自体が音楽というものではなく、単なる記号の集まりでしかありません。それは、演奏家による現実の「音」を通してはじめて「音楽」として私たちの眼前に現れる。

 

ということは、一部の専門家などの特殊な能力があれば別かも知れませんが、普通の私たちにとっては、演奏家がいなければ、バッハやモーツァルトの音楽も、この世に存在しないのと同じだということになる。

 

そこに、クラシック音楽の世界における「演奏家」と言われる人たちの重要な存在意義が認められるのと同時に、私たちにとっての大きな楽しみが生まれてくる。

 

最近私は、CDで、オットー・クレンペラーの指揮するフィルハーモニア管弦楽団の演奏によるベートーベンの交響曲第5番を聴いて、たいへん感銘を受けました。

 

クレンペラーの指揮による演奏は、他の指揮者の演奏に比べると全体としてだいぶ遅いものになっています。特に終楽章などは、普通8分から10分くらいで演奏されるところ、クレンペラーだと13分以上になる。これはもう相当に「遅い」演奏だと言っていい。

 

ベートーベンの第5の終楽章の、あの溌溂として伸びやかな音楽を思い浮かべたときに、これだけ「遅い」演奏を聴くということは、ちょっとだけ覚悟を要する。

 

けれども実際に聴いてみると、それはまったくの杞憂でした。そこには、「重厚」ではあるけれども決して「鈍重」ではなく、確かな足取りで一歩ずつ前に進んでいく立派な音楽の姿がありました。

 

更にこのクレンペラーによる演奏では、他では聴こえてこなかったような、いろいろな音が耳に届いてくるのがわかり、聴き終わった後に「ああ、本当に楽しくて素晴らしい音楽を聴いた」という充足感に浸ることができました。

 

これはほんの一例に過ぎませんが、同じようなことは他にもたくさんあって、ただ単にCDで聴くにしても、ショパンのこの曲ならあのピアニスト、バッハの組曲ならあの演奏が一番などと、自分のお気に入りの演奏との出会いが、クラシック音楽を聴くうえでの大きな楽しみであることは、まず間違いのないことだと思います。