『絹と明察』という三島由紀夫の小説の中で、資本家である主人公の駒沢善次郎が、労働者に反旗を翻された後、こう述懐する場面があります。
今かれらは、克ち得た幸福に雀躍しているけれど、やがてそれが贋ものの宝石であることに気づく時が来るのだ。折角自分の力で考えるなどという怖ろしい負荷を駒沢が代りに負ってやっていたのに、今度はかれらが肩に荷わねばならないのだ。
(三島由紀夫『絹と明察』より)
会社を辞め、独立するということも、これと似たようなところがあるのかも知れません。
「経営」という怖ろしい負荷を社長が代りに負ってくれていたものを、今度は自分の肩に荷うこと。それが独立するということの意味なのかも知れません。
ただ単に「楽」をしたいのであれば、独立などしない方がいいに決まっています。
与えられた仕事をこなすより、自分で仕事を取り、時には自分で仕事を作り出すことの方が、はるかに困難であることは間違いありません。
誰かの指示で動くより、誰かに指示を出して動かすことの方がずっと難しい。であればこそ、会社には「役職」という形ではっきりとした上下関係が存在するのだと思います。
平社員よりも課長の方が偉く、課長よりも部長の方が偉い。さらには部長よりも社長の方がもっと偉い。そういうはっきりとした上下関係をつけなければ、誰も自分の指示で人を動かすなどという重荷に耐えられない。
もしかすると、それは会社に限らず、「組織」というものは常にそういうものなのかも知れません。
行政書士で独立開業するということは、主人公である駒沢の言う「自分の力で考えるという怖ろしい負荷」を自身の肩に荷うことに他ならないのだと思います。
誰も指示はしてくれないし、誰も仕事を与えてはくれない。自分の力で考え、自分の力で仕事を取る。しかも、それをずっと継続していかなければならない。
それは本当に「怖ろしい負荷」であるに違いありません。けれども、その一方で三島由紀夫は、同じ主人公に、続けてこうも言わせることを忘れてはいませんでした。
「それもええやろう。苦労するだけ苦労したらええ。その先に又、おのずから道が開けて来るのや」そして存分に、悲しそうに吠えるがよい!人間どもは昔からそうして吠えてきたし、今後もそのように吠えつづけるだろう。
(三島由紀夫『絹と明察』より)
何の因果か、私も「悲しそうに吠える」方を選んでしまった人間の一人かも知れません。しかし同じ「吠える」のであれば、力の限り、精一杯吠える他はないのだと思っています。