行政書士開業 徒然日記

57歳で行政書士開業を決意した男のブログです

五十を過ぎてわかったこと

だいぶ前になりますが、音楽評論家の吉田秀和が、歳を取ればもっといろんなことがわかるようになると思っていたが、全然そうではなかったという意味のことを、どこかに書いていたのを読んだ記憶があります。


私も、これまで五十年以上生きてきましたが、自分で自信を持って確かにわかったと言えるようなことは、ほとんどありません。そんななかで、これだけは本当に腹に落ちたと思えることが、一つだけあります。


それは、「言葉」です。


言葉には、間違いなく「美味しい」言葉と「不味い」言葉とがある。そしてそれは、私たちが普段食べ物を口にしたときに感じるものとほとんど同じ感覚に属している。


言うなれば、言葉にも、食べ物と同じように「味」がある。


そういうことが、私は五十を過ぎたあたりから身に染みて感じられるようになり、「言葉」についての、自分なりの確かな感触を得ることができたと思えるようになりました。


単純に、言葉を味わうことを覚えた、と言ってもいいのかも知れません。


言うまでもないことですが、ここで私の言っている「言葉」とは、もちろん「日本語」のことです。


当り前のことかも知れませんが、日本に生まれて普通に暮らしていれば、自然と日本語についての知識や理解は深まってきます。ただ、それだけではやはり足りず、私の場合、言葉についての感覚は、これまで読んできた様々な書物を通して、日本の歴史、文化、伝統などを学ぶにつれ、徐々に養われてきたものだと思っています。


私たちのからだが、食べ物から養分を摂ることで生かされているのと同じように、日本人としての私たちの「こころ」もまた、日本語から養分を摂ることで生かされている。



「日本語」という言葉によって、私たちは日本人として生かされているのであって、決してその逆ではない。



「日本があるから日本語があるのではなく、日本語があるからこそ、日本がある」



大げさでも何でもなく、五十を過ぎて言葉の「味」を知るようになった今、そう私は確信しています。