行政書士開業 徒然日記

57歳で行政書士開業を決意した男のブログです

歳を取れば取るほど難しくなること

私は、五十七になりますが、年々歳を重ねるごとに難しく思えてくることがあります。

 

それは、「老いる」ことの難しさです。より正確に言えば、「幸福に老いる」ことの難しさです。

 

私には、現在の日本で「老いてなお幸福」であるということが、相当に困難なことになっているような気がしてなりません。

 

これは、お金があるとかないとか、そういうこととは必ずしも関係のないことだと思います。

 

現在の日本で、たとえお金があっても幸福とは言えない老人は、決して珍しくはないのではないでしょうか。

 

もしそうだとして、その問題を突き詰めて考えようとすれば、それは現代日本社会学的な問題で、とても私の手に負えるものではありません。

 

ただ私自身の身近な例で考えてみても、祖父母の世代には確かにあった「幸福そうな老人」の姿が、もはや父母の世代にはほぼ見いだせなくなっています。

 

いわんや私がもっと年老いたころには・・・。

 

もしかするとそれは、私の勝手な想像に過ぎないのかも知れません。

 

しかし、今の日本に、なんとかして「老い」を遠ざけようとする社会的な風潮があること、それは確かなことではないでしょうか。

 

「老いを迎える」という言い方があります。この言葉、私はなかなか意味深い言葉だと思います。

 

「老い」は、生きていれば必ず誰にでもやってくる。それは、どうあがいたところで避けようのないものです。

 

であれば、その「老い」を無理に遠ざけようとするのでなく、自然の摂理のままに素直に受け入れようとする姿勢。

 

そういうものを、私はこの言葉の中に読み取ることができるように思うのです。

 

老いを受け入れるとは、即ち「死」を受け入れる、ということでもあります。

 

私の記憶にある「幸福そうな老人」の姿には、どこか自分の死をも自然と受け入れているような雰囲気が漂っていたように思い出されます。

 

そうして今思い返してみるとそれは、「個人の能力」や「個人の考え方」というよりも、何かそういうものを超えた「社会全体の在り方」に由来するものだったのかも知れないと思えるのです。

 

「老いる」とは、ごく単純に言って、「弱くなる」こと、「不自由になる」ことです。

 

現在の日本で「弱いもの」は、下手をすると見捨てられて当然の存在とみなされかねない。多くの人が懸命になって「老いる」ことから逃れようとしているのも、そういう社会の空気を敏感に感じ取っているからかも知れません。

 

「老い」に抗い、少しでも「若さ」を保とうと努力する人を否定しようという気は、私にはまったくありません。できれば健康で長生きしたい、そう願うこともまた実に自然なことだからです。

 

ただその反面で、人が「老いる」つまり「弱くなる」ことに対して、それを当り前のこととしてそのまま受け入れようとする社会的な土壌が、日本においてもはや失われてしまっているのではないか。私が危惧しているのは、むしろそういうことなのです。

 

たとえ今は強くとも、いつかは必ず弱くなる時が来る。そういうことを、私たちはもう一度しっかりと思い出す必要があるのかも知れません。